禅とは

 

禅とは・・・

「禅」とは何か、と問われてこれを正しく即答できる方は少ないのではないでしょうか?
なぜならそれは「言葉」という「道具」を用いて説明する事が不可能、あるいはそれに近いからです。
例えるなら「在るのに無いもの」、または「無いのに在るもの」を言葉で具体的に説明しようとする事に似ています。
禅とは、既に皆様の内に「在るもの」、または「気付けば在るもの」と私自身は捉えています。


ではどうすれば、それを「内に在るもの」と感じて頂けるでしょうか。
前段階としてまずは「気付いて」頂く事、そして次にそれを「意識して」頂くことなのです。
昨今、私達を取り巻く環境は、驚くほど多様に、また急速に変化し続けています。
それに伴い、私達の「こころ」もまた、波打ち、ざわつき、時に苛立ちを、時に虚しさを感じてなりません。
刹那的な幸福感や理不尽な不都合感もまた、日々の生活の中で感じるものです。


ここで皆様にふと立ち止まって、暫し想い巡らせて頂きたいのです。
このような「こころ」の在り様は、本当に時世の所為なのでしょうか。目まぐるしく変化する環境のせいなのでしょうか。
仮にもし自らが、樹齢数百年の大樹のような、そんな泰然とした姿の「こころ」を持っていたなら、どうでしょう。
果たして、また同じように感じるでしょうか。


この世のあらゆるもの、即ち「森羅万象」は尽く、「移り変わり」ます。
所謂、「諸行無常」という仏語をご存じの方は多いかと思いますが、まさにこの事です。
どんなに慌ただしく流れゆく時代にあっても、「移り変わって当たり前の事」と「こころ」が、すとんと受け入れてくれたら、
心無い言葉を受けた時にも、悲しい思いをした時にも、そのような「こころ」は泰然と受け入れてくれる筈です。
これを仏語で「自他一如」といいます。
自分も他人も、そして自分にとって不都合な事柄をもみな同じ、「ひとつのもの」なのだ、と。


そうは言っても簡単には変えられないよ、とお思いになられた方がいらっしゃる筈です。
その通り、「こころ」は簡単に変えられるものではありません。


そこで、前述した「意識して」頂く事です。自らの中に既に「禅」はあり、その想いを意識して日々を過ごされる事は、
知らぬ間に己の内で熟成されていきます。

一つの形に拘らない「無相」。一つの場所に留まらない「無住」。そして一つの思いに偏らない「無念」。
この三つの心境を「禅定」と呼び、即ちこれが「仏のこころ」、となります。
私たちの心は、もとより清浄な「仏のこころ」を持っているにも関わらず、他の存在と自分とを比べて対象化し、距離や境界を築き、己の都合や立場を守ろうと「我欲」を以て、曇りや歪みを生じさせています。


この世は己がままには行かないものです。 ですが、正確には「我欲のままには行かない」という事なのです。
禅語にある「如意」とは「意の如く」と思いのままになる事を表しますが、「如意」の「意」は我欲の事ではなく、
自他の境界や立場を超えた「森羅万象に共通する仏のこころ」を指しています。
この「仏様のこころ」には「智慧」と「慈悲」があり、それは認許とも言い換えられます。
己とは違う他者を認め許し、己もひとつとする「不生不滅・不垢不浄・不増不滅」という「空の価値観」にあるというおおらかなこころ。

己が自身の心を「空の価値観」にするという事、即ち「禅」とはそのような心を指すのかも知れません。  合掌